1990-12-18 第120回国会 衆議院 土地問題等に関する特別委員会 第2号
土地は商品にあらず、こうおっしゃったのは、昭和三十九年、当時の建設大臣でありました瀬戸山建設大臣がおっしゃった言葉であります。しかしながら、その後の自民党の対策というのは、土地の値上がりは需給関係だという考え方から、常に需給需給、供給を多くすれば土地問題は解決する、地価問題は解決する、こう言われてきておるし、今もまだその論議が進んでやられておるのであります。
土地は商品にあらず、こうおっしゃったのは、昭和三十九年、当時の建設大臣でありました瀬戸山建設大臣がおっしゃった言葉であります。しかしながら、その後の自民党の対策というのは、土地の値上がりは需給関係だという考え方から、常に需給需給、供給を多くすれば土地問題は解決する、地価問題は解決する、こう言われてきておるし、今もまだその論議が進んでやられておるのであります。
土地は商品にあらずということを国会で答弁されましたのは瀬戸山建設大臣が初めてだと思います。そうしますと、二十何年前の御答弁と同じことをやられておるわけであります。それほどまでに政府が実はこの土地問題に対しまして無策であったということが言えるのではないかと私には思われるのであります。そこで、この法案につきまして与野党の考え方の違うところを示しながら質問を展開してまいりたいと思います。
この相原さんは「多摩新報」にずうっと書いておられますけれども、この許可認可等臨時措置法による都市計画決定――当時の瀬戸山建設大臣が行われたものは、これは違法だと、こういうとんでもない戦争中の勅令を使って閣議が必要なものを、旧都市計画法の法律の定めを無視して建設大臣が勝手にこの勅令を使って決めてしまったのは無効だということをずうっと主張されてこられました。
六月には十万六千余名の反対署名簿に田中角榮自民党幹事長の添書を添えて瀬戸山建設大臣に手交というようなこともあった。七月二十九日衆議院建設委員会で、神近市子議員の質問に対し瀬戸山建設大臣が計画決定の認可を言明した。 このとき、当時の竹内藤男都市局長――いまの茨城県知事、竹内藤男都市局長は神近議員の質問に対して、こういう答弁をしている。
当時建設大臣は瀬戸山建設大臣であります。この問題に関してどう答弁しておるか。「法律によって行政機関にまかされておる」と言いながらも、「もちろん国会でいろいろ意見を聞くということは、私は非常に好ましいことであると考えます」、そういうふうにはっきり国会で意見を聞くことの重要性を認めておるわけであります。また、五十三年に公団家賃の一斉値上げが行われた。
○中島(武)委員 四十一年当時瀬戸山建設大臣が八割充てたい、こういうふうに言ったものが、現実には一割六分という結果が出ているということですね。
四十一年の空き家家賃の値上げのときに、瀬戸山建設大臣は、家賃の抑制に八割、それから修繕費などに二割、こういうふうに答弁しておられる。実際には一体家賃の抑制には何%くらい充てたのか、これをお尋ねしたい。
たとえばこの法律ができた昭和四十一年のときに、当時の瀬戸山建設大臣は、「これはできるだけ資金量をふやさないと、この制度のほんとうの生命というものは出てこない」、資金が多くなることによって生きてくる、こういうことを言っております。また四十一年度ですら、この瀬戸山大臣は、当時予算の要求額といたしまして二百億円は必要だと主張したようでありますけれども、当時はたったの十五億円にとどまった。
これは瀬戸山建設大臣ですか、昭和三十七、八年ごろの建設大臣が土地は商品にあらずという名言をされた。しかも、土地利用計画法においては、土地というものは国民共有の資源であるという規定を各党一致でなしたところなんであります。 大平総理大臣はおられぬけれども一言言うておかなければいかぬ。
これは実は大臣に伺いたいと思うのですけれども、いま局長から御答弁がありましたように、四十年の十二月二十三日に瀬戸山建設大臣が談話を出して、そして準則に基づいて、これに適合しない占有地を一部公園などに開放してきた経過が実はあります。
○新井委員 この東京外郭道路の問題はこの前もいろいろお話があったと思いますが、昭和四十一年三月にこの計画が初めて発表されて、それから昭和四十一年六月には十万六千名の反対者の署名を、当時の田中幹事長及び瀬戸山建設大臣に手交しておるわけでございます。
瀬戸山建設大臣だったと私記憶しておりますが、農民に対して、土地は商品ではないのだ、これを商品として売ることはけしからぬということで、農民をぎゅうぎゅう締めながら、現に商品として土地を扱っている大法人、これに対しては何の規制措置も講じなかったというのが、いままでの自民党政府のやり方だと私は思います。そこのところを根本的に改めなければ、地価の問題なんて解決できないと思う。
これがかなり大きな反響を呼びまして、地元でもたいへんな問題になり一もちろんその前から問題でありましたが、その前は、何かまぼろしのダムといったことで、まあ影におびえておるというような状態でありましたけれども、当時の瀬戸山建設大臣の発言から、政府はやはり沼田ダムの建設の意図があるのだということでかなり問題になったけれども、問題が少し大きくなり過ぎて、その後、続いて橋本登美三郎君が大臣のときにはだいぶ答弁
○和田静夫君 私は、瀬戸山建設大臣の発言に触れたことを十分頭の中に入れておいていただきたいと思います。たいへん恐縮ですが、河川局長はなお川崎さんですね。——そこで、きょう、もう時間がなくなりましたから質問しないのですが、私は、この前、四十五年の十一月六日の決算委員会で川崎さんが私に約束していることがある。その資料が一向に届かないものですから、それを早く届けてもらいたい。
それは四十一年五月六日の衆議院の建設委員会で、当時の瀬戸山建設大臣は、古くから入っている人の住宅の家賃まで上げようとは思いませんと断言されているんですね。したがって、検討の結果、古い人の家賃を上げますと言ったら、大臣の約束違反になります。それはいまでも生きているでしょう。十分に考えなければならぬと思いますが、いかがですか。
このとき、本委員会におきましても、国会の知らないうちに値上げが発表になるということで、関係公団の皆さんにお集まりを願って、瀬戸山大臣以下いろいろと真剣な論議をした速記録が残っておるわけですが、これで見てまいりますと、まず第一に、当時の瀬戸山建設大臣は、あき家住宅の値上げをする必要性なり理由をこんこんと説明しておられるわけです。
○林参考人 昭和四十一年にあき家家賃を上げました当時のいきさつ、また、当時の瀬戸山建設大臣の御答弁、おっしゃるとおりであると私も記憶しております。
四十一年の国会における瀬戸山建設大臣も、働いた賃金すらも受け取ることができないというような悲劇はなくさなければならない、そのためには下請、孫請が不払いを起こした場合は元請が一切の法的責任を持つような立法措置を講じなければならないのだということを声を大にして国民に約束をしておられるわけであります。そうして今日まで時間もかなり経過をしておりますが、いまだそれが実現を見ておりません。
そのときにおける当時の瀬戸山建設大臣並びに住宅局長の尚さん、あるいは住宅公団の水野理事、これらの御出席を願って、重大な問題として、今後あき家問題だけではなくて公団住宅の入居者に対する問題に波及する要因を含んでおる、こういうことで政府の方針をただし、これに対して政府からの答弁が出ておるわけなんです。
ところが、あき家の家賃の値上げによって——家賃は一億九千万円上がるんだといたしますと、特別補修するために三億七千八百万円のお金を要するんだ、これでは二カ年間値上げいたしましても全部特別補修のほうに回ってしまって困るんだ、こういうことでまだ方針がきまっていなかったのに対して、当時の瀬戸山建設大臣は、閣議の了解を得た、大蔵大臣とも折衝した、そういう中で二割は償却に回す。
その点では、大臣も御承知でしょうけれども、たとえばなくなった河野建設大臣の問題はともかくとして、四十年に瀬戸山建設大臣が、万国博までに間に合うように四十一年度から着工したいと言っておるのですね。保利建設大臣のときには、四十三年の秋までには着工ルートを決定すると談話を発表している。それから四十四年、去年総理大臣が、優先順位を含めて秋には決定する。
補助金もこれに対して八十四億というのですが、昭和三十六年の調査、これはたいへん古い調査でありますが、このとき改良ないしは新築を必要とする不良住宅が約三万戸ある、こういうふうに当時の瀬戸山建設大臣が答弁をしておるのです。参事官もおられるから聞きますが、一体新築ないしは改良を必要とする不良住宅というのはどのくらいあるということに、現在の調査ではなっておるのですか。
○前川旦君 それは大臣、いままでのいろんなお話と違うと思うんですが、実は三年ほど前に建設委員会で、瀬戸山さんがまだ建設大臣のときに質問をいたしましたが、そのときも瀬戸山建設大臣がはっきり、橋は将来三本要ると思う、将来必要だと思う、やがてかけるようになると思うということを言っておられましたが、それからずっとどこのお話でも、いろいろ新聞出ておりますけれども、いろんな大臣の談話では三本必要だ、三本かけるんだというようなことを
これは四十一年の五月二十六日に衆議院本会議を通り、さらに同年の六月三日に参議院本会議を通りまして、七月一日に中部圏の開発整備法が公布施行され、同日付で開発整備本部というものが設置されて、初代長官に瀬戸山建設大臣がなられたという経緯が御承知のようにございます。
その当時、河川敷を開放する、こういうことでまず多摩川、多摩川がある程度緒についたならば続いて荒川、こういうことで、当時の新聞の切り抜き記事までありますけれども、ちゃんと開放計画が立てられて、当時の瀬戸山建設大臣の談話さえも、開放計画を具体的に進める、こういうことで発表されることになったわけです。その後の具体的な進捗状況をひとつお知らせいただきたい。
瀬戸山建設大臣ともかつてこの問題を議論いたしまして、これはひとつ特別に配慮する、こういうことでございました。若干計画も進んでおるわけです。